< 引用その1 >

 うるさくつきまとう厚かましい人間というものは、ふと思い浮かんだことを口にし、手当りしだいに質問することができる。その愚かな男は、昨日まではわたしの名前をまだ聞いたこともなかった。今日は、稼がなければならないので、どうにかこうにかわたしの名前を発音できるようになってはいるが、わたしが何をしているかさえまったく知らず、そのことに興味ももっていない。ジャーナリストというのは、もちろん全国民を代表しているわけではないが、どんな新聞を手にしているかを見れば、その人の頭の内容を言い当てることもできよう。
 西側の典型的なジャーナリストは、教養がなく、ずうずうしくて、底知れぬ冷笑家である。彼に必要なのは、今日いくばくかの金を稼ぐことであり、そのほかのことにはまったく無関心である。このような厚かましい人々はみな、わたしが「勇気をもって」愚劣な質問に答えることを望むものだ。そして、この紳士たちは、望みどおりの答えを聞けないと、ひどく憤慨する。だが、どうして彼らにわたしは答えなければならないのだろうか。そもそも、彼らは何者なのだろうか。なぜわたしは自分の生活を危険にさらさなければならないのか。それも、わたしのことなんかなんとも思っていない人間の他愛のない好奇心を満足させるために。その人間は昨日まではわたしのことなど耳にしたことがなく、明日になれば、わたしの名前なんか忘れてしまうのだ。そのような人間に、わたしの率直な告白や信頼を要求するどんな権利があるというのか。わたしのほうは、その人間についてなにも知らないが、しつこく質問攻めにあわせたりしない。そうではないか。いくらその人間が、なんら生命の危険を冒すことなく、わたしのどんな質問にも答えられるのだとしても。(p343〜344)

 

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